風格を描く映画「一つのドラマを感情で現わすのはやさしい。 泣いたり笑ったり、そうすれば悲しい気持、うれしい気持を観客に伝えることができる。 しかし、これでは単に説明であって、いくら感情に訴えても、 その人の性格や風格は現わせないのではないか。 劇的なものを全部取り去り、泣かさないで悲しみの風格を出す。 劇的な起伏を描かないで、人生を感じさせる。こういう演出を全面的にやってみた。」 と言っている。 その人の性格が描けているかどうかということは、 どんな映画であっても、 その映画の出来、不出来の判断基準になるくらい基本的なことだ。 しかしここで面白いと思うのは、小津が 「その人の性格や風格」をもっと現わそうとして余計なものを捨てていくと、 「劇的なものを全部取り去」ることになり、「秋日和」のような 日常生活の色々な場面を集めただけのようなものになってしまうということだ。 もともと「秋日和」ほどではなくても、 日常生活の場面を集めただけというのは小津映画全般にある傾向といえる。 「晩春」、「東京物語」・・・ どれもそう言えばそうなってしまう。 思うに、前述の言葉はあくまで「秋日和」について言っているにすぎないが、 「秋日和」では専らそれを狙ったというだけで、 小津はどの映画であっても、 基本的に描こうとしたのは「その人の性格や風格」だったのではないだろうか。 思想などは、同じ性格や風格の人であっても時流によって変わることもある。 小津映画のそれぞれに表れている思想は、 小津にとっては、時代によってそうなったということにすぎなかったのではないだろうか。 ここで、「純粋に性格や風格を描く映画」というジャンルを考えてみると 面白いかと思う。 「純粋に性格や風格を描く映画」では、 主にその人の「性格や風格」がどういうものか、 それがどう表現されているかが見られるものになる。 英雄や怪異の話ならば、何をした何があったという事件は欠かせないものだろうが、 そうではなく、 それは日常生活での一コマを集めたものの方がよく表現できるのだろう。 小津映画の基本的なところは、そういうものではないだろうか。 源氏物語に、有名な物語論がある。 (物語は) その人の上とて、ありのままに言ひ出づることこそなけれ、 よきもあしきも、世に経る人のありさまの、 見るにも飽かず、聞くにもあまることを、後の世にも言ひ伝へさせまほしき節ぶしを、 心に籠めがたくて、言ひおきはじめたるなり。 (源氏物語) 《物語は、 その人の上のことといっても、ありのままに言葉にすることこそありませんが、 良いことも悪いことも、世に生きる人の有様で、 見るにも飽きず、聞くにもそのままにできない、 後の世にも言い伝えさせたいあれこれを、 心に籠めがたくて、言い残したのが始まりなのです。》 まさに小津にとって、 「人のありさまの、見るにも飽かず、聞くにもあまること」、 「後の世にも言ひ伝へさせまほしき節ぶし」は、 英雄や怪異の話のような何をした何があったではなく、 そして何か思想のようなものでもなく、 それは「人の性格や風格」であった、ということではないかと思うのだが。 (FK 2005年3月2日) 参考図書 小津安二郎の芸術 / 佐藤忠男 |